昭和54年01月01日 朝の御理解



 御理解 第百節
 「めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ。」

 昨夜、除夜祭を終わって御結界についておりましたら、竹内先生があのう今年の合楽に参拝のお届け帳の数を報告に参りました。去年一年間に三百六十二万九千、あっ三十六万二千九百八十七名と言うお届けがあっております。ちょうど去年より四万増えておるというのです。合楽がこうやっておかげを頂くようになって、年々歳々こうして信者の数も増えておる。それに伴ってお届けも多くなっておる。まさに日まさり月まさり年まさりというおかげを頂いております。
 この信心が間違いなく継承されて、おかげを頂いて行く限りこれが代まさりとも、まぁなって行く事でしょう。みんなが人の手本になるような信心をせよとこういう。手本になるような信心とは、私は先ずは自分自身がおかげを受ける。自分一家がおかげを受けて、なるほど信心しておっても様々な事がありますけれども、その様々な事のなかからいよいよ信心を深く広く頂くことになり。力を得ていわゆる去年よりも今年今年よりも来年と言う様な、確信の持てれる信心生活をさせて頂きたいですね。
 だからこの信心生活が、金光大神は信心生活を教えておられるんです。生活信心じゃないです。生活の為に神様を利用しようという事じゃないです。信心そのものの中に生活があるんです。そういう生き方を教えておられます。昨日これはあのうお届けの続く、あのう同んなじようなお届けが続くという事が、何時もここでははっきり現れて来る訳ですけれども。昨日私がお届けをさせて頂いた。次々いちいち商売お届けそういう御用をさせて頂きながら、信心しておる方達が殆んどの方がですね。
 こうやって不景気不景気と申しますけれども、私の方ではまぁあんまりそんなおおっぴらには申し上げられませんけれども、何千万去年よりも売り上げが多かったとか。何千万現収入が多かったとかと言うお届けが続いた事でした。やっぱり合楽と共にいわゆる年々歳々、日勝り月勝りのおかげを受けておられるという、まぁ是をいちいち名前を申し上げると、もうちっと実感があって良いでしょうけれども。本人があんまりこうおおっぴらには言われんけれども、実はこうこうおかげを頂いておるとこう言うのです。
 それを見るとですね。みんな日参、教聴、心行、家業を行として、努めておられるなぁと思われる方達ばっかりです。日参、教聴、心行、家業そのものを行としておられる方。もうこれはもう絶対です。日まさり、月まさり、年まさりのおかげを受けられる。そこで信心段々分かって来て、その日まさり、月まさり、年まさりの、そのおかげを、いわゆる、信心の真をもって現していけると言うことになれば、これは徳にならないはずがない。それがいわゆるの代まさりのおかげともなって。
 それこそ真善美輝くような、」おかげの世界が展開して来る訳なんです。教祖金光大神は、それこそまぁ今日一月一日で、誰でもまぁ耳障りが良いと言うなら、めでためでたの若松様よと言うところじゃないでしょうかね。今日私は酔ってからここで言うた訳じゃないけれども。今日頂いたのがここなんです。百節。だから御道の信心を頂くもの全て、いや合楽にご縁を頂く全ての人が、こういうおかげを頂いて貰いたいと。また合楽でならば頂けれるとこれは私が確信を持ってお取次ぎをさせて頂いておるね。
 そこにはね金光大神は、家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃと、こう教えられるのですから、その道を体得しその道を行じて行く。それを合楽では合楽理念と言う、言うならばもうみやすうと言うかね。もうそれに本気に取り組んだら楽しゅうなる有り難うなる。そういう手立てを説いておる訳です。そのまま金光大神家繁盛子孫繁盛の道なんです。勿論家繁盛子孫繁盛のおかげを頂くという事は、家繁盛子孫繁盛の事ではない。人間も身代も達者も足ろう様におかげを頂ける信心なんです。
 先ずだから人間が出来なきゃ出来ません。身代と達者と続いておかげが、いわゆるめでためでたの若松様よという事。もうお祭り昨日も済んでから、私下ろうとしておりましたら文男先生がお届けに出て参りました。昨日は身体が非常に悪かった。もう本当にお祭りも頂けんのじゃろうかと言うぐらいに身体が悪かったんですけれども。偶々先生が関わっております、ご信者さんから電話が続いて二軒から架かってきた。
 その二軒からの電話の電話での向こうでの言われる事が、もうあまりにもおんなじ事だったのでもうびっくりした。途端に身体がしゃんとした。不思議なもんですねぇ。おかげと言うのはそんなもんです。はぁもう今日は身体がきつうてきつうてたまらん。そこへ生き生きとした神様の働きが入って来る。その生き生きとしたその心がそれこそ身体全身の血を変えるような働きをするのです。真に有り難いと思う心すぐにみかげの初めとね。自分が電話でお取次ぎをさせて頂いた方なのです。
 その向こうから聞こえて来るその言葉が、あまりにも同じだった。もう今日はとにかく除夜祭でお忙しい。親先生にもうとにかく先生方もお忙しいであろうと思いますけれども。まぁ遠方におりますからお参りが出来ませんけれど、とにかくあの御礼だけは申し上げなければおられませんから、とにかくこの事を親先生にお取次ぎをお願い致しますという事がですね。一人は神戸の天野さんという方でした。この頃二十五日のなんですかね、マルショウの、なんか感謝祭がございました。
 その時にお参りになっておられた。それで勿論まぁ大変熱心なご信者ですが、あれから帰らせて頂いて、もう永年の事業がすっきりおかげを頂いておる事に気が付いておる、昨日のその電話でした。それからもう一人は、あちらは神湊ですかね。から竹島さんという方がお参りして参ります。自分の実母、お母さんが脾臓癌で医者はもう難しい、このまま食事がいけずに亡くなっていくと言う病気だそうです。それであちらの教会に、大体お参りをしておられる方ですけれども。
 月に何回かまぁ特別のお願いの時だけ出て見える方なんですけれども。まぁそんな訳ですから電話でお取次ぎを頂いた。おかげを頂いてその日から、何かこう流動食のようなものがいけるようになった。そしてあれが食べたいこれが食べたいと言われるようになった。ちょうど昨日そのイチゴが食べたいと言う。それでまぁ町中果物屋やら野菜屋やら歩いたけれども、田舎町の事でそれがない。ところが主人がその帰って見えられてから、もうそんな事のある、お母さんが病気をその知っておる人じゃないのに。
 自分の方で少しばっかりイチゴを今年作った。だからお母さんに差し上げて下さいと言うて、託られたからと言うてお父さんが持って帰って来た。もう驚いてしもうて母が喜びます事喜びます事。それからまたあれが食べたいこれが食べたいと言う様になって。こんなら助かるばいと医者が言う程しになった。もうとにかくまぁ来春は早々に御礼に出ましょうけれども、とにかくその事を親先生にお取次ぎをお願いします。
 その真からもう心から御礼を言うておるのが、上野先生の言うならば耳を通して、身体全体の血が変わる程しに有り難うなって来た。さぁそれからその事を神様の前に出てから御礼を申し上げておったら、もうお礼を申し上げる事の多い事多い事。お詫びをさせて頂く事の多い事多い事。それこそ一年分の御礼が出来る程しに、有り難うなったというお届けに出てまいりました。信心とはねそれなんです。五と五と足して十になると言った様なもんじゃないです。もうそれから先は限りがない。
 昨夜の御理解のなかに一年を締め括らせて頂いてね。それこそ一年中の御礼を申し上げ、一年中のお詫びをさせて頂くけれども、その御礼と言うてもお詫びと言うても、ただちょっとこのくらい頭下げる人もおりゃ、このくらい下げる人もありゃこのくらい下げる人もある。それこそ御神前に額づかせて頂いて、昨日上野先生じゃないけれども、頭が上がらんほどに有り難うなって来た。
 その一時間ばっかり前はもうとにかく身体がきつうして、もう今日は除夜祭じゃあるばってんから、ご無礼して休ませて貰おうかとこう思うておった。そこにほんなら指名してその上野先生のお取次ぎを頂いておりますから、上野先生にと言うて続けて電話が掛って来た。その電話がもう例えば昨日私があの今年は二千万残りました。今年は二千万売り上げが多ございましたと言った様な、それがずうっと四、五人続いた様にですね。有り難い事だなぁ有り難い事だなぁとこう思います。
 また上野先生はその有り難いと御礼を聞きながらです。心の中それこそ生き生きとした何かがこう、それこそ身体全身の血が変わるように有り難うなって来た。それが感動ともなって来た。そして初めて一年間の御礼が出来たお詫びが出来たというのです。夕べの御教話の中にも頂いておりますように、私は昨日の除夜祭を奉仕させて頂いてその事を頂いてから。はぁ本当にこの一年間の御礼とかお詫びとかという事は、こういうものでなからなければいけないな。
 これは話を聞いてそれこそ上野先生じゃないけれども、何かにもしちょっと触れたら、合楽の信奉者の皆さんは、みんなこういうお詫びやら御礼が出来るだろうと、もうしきりに昨日思うて、その事を教話に聞いて頂いたんです。三代金光様がね晩年にご述懐になっておられる言葉の中に。もうそれこそ有り難うて有り難うてね。この様な勿体ないおかげを頂いて、もう本当有り難うて有り難うてとこう言うておられる。その御礼が足りない。そのお詫びばかりをしております。
 はぁこれだなと御礼とはこれだなと、お詫びとはこれだなと私は思うた。悪い事をしてからすみませんと言うのでもなからなければ、特別何かねそれこそ子供がおやつを貰った時のような、ただ嬉しい喜ばしいというだけではなくてです。あれを思いこれを思いをしたらね。三代金光様が十三歳のお年から、御神前七十年間という間の、御神勤あそばされた。初めの間は辛うて辛うてよう泣いたと仰る。それを辛抱しいしいに辛抱し抜いておりましたら。思う事がなくなり欲しいものがなくなり。
 ただ有り難うて有り難うてという心が開けてみえた。その有り難うて有り難うてという心には、もうこんなに勿体ないおかげを頂いても良かろうかと、言う様なおかげの中に浸らせて頂いて、その御礼の足りないですお詫びばかりを致しておりますと言う。はぁこれはねもう本当に御礼お詫びの、言うならば手本のようなものだなと、私は昨日思うた。何かだから有り難いという何かに触れ、上野先生じゃないけれども触れた。触れたそこからです一年中の事を思うたら、あれもおかげこれもおかげ。
 本当にあぁいうお粗末ご無礼であったにも関わらず、この様なおかげを頂いて、幾ら御礼を申し上げても御礼を申し上げても、足りませんのじゃと仰るような、私共でもその足りんね。昨日私が申しました。年末ともなるとそれこそ年に何回かと言った様な方達も、やっぱ出て参ります。まぁはっきり分かりやすく言うなら、ほんなら本当に一年中おかげ頂きましたと言うて、五百円の御初穂で一年間の御礼を済ます人もおりゃ、千円で済ます人もある。一万円せにゃおられんという人もある。
 百万円のお供えをしなければ、これでも足りませんけれども、という人もあるのです。違うでしょうが有り難いというその度合いが。だからこの位有り難い、この位有り難い頭を下げる、程度でもそうなんだと。それこ御神前に額づいて、昨日上野先生じゃないけれども御礼を申し上げても、申し上げても足りない程し、のおかげを受けておる事実。それを只身体がきつかった痛かっ。、それだけでなんか頂いておる事が、散漫になって軽うなって来た。
 いわゆる年末だというの、にもうご無礼して休もうかと言う様な心の状態にですね、入って来た有り難いものが。生き生きとした喜びがね。それを聞かせて頂いた途端に身体全身の血が、新たな血に変わるかのように、有り難うなって来た。そしてお礼を申させてもらいよったら限りない御礼、限りないお詫びをさせて頂いたと言うのです。金光大神はね、子孫繁盛家繁盛の道を教えると言うのは人間がね、もう当然有り難いと御礼を申し上げなければならない、御礼の道を教えて下さるのです。
 喜びの道を教えて下さるのです。勿論お願いをするからにはある場合にはね、もう儘よと言うそれは死んでも儘よと言う様な、一心をもって縋れよとかね真心をもって願えとか、縋れとかと言ういわば縋る願うという事も教えられますけれども。その真心とか一心と言うてもですその心から底からそれが出て来るのでなからなければいけない。言うならば真に有り難いなぁと言う、言うならば心の状態をもって御礼を申し上げる。お詫びをさせて貰う。そして痛いなら痛い痒いなら痒いとお願いをさせて貰うという生き方。
 お互い今年こそはとみんなが言いますよね正月には。ほんなら去年はどげんじゃった。もう去年はもう散々じゃった。どげんとこが散々じゃった。それをようと思うてみりゃ思うて見るほど、私は昨年久富勇さんという方の娘さんが、昨日御礼に出て来た事を話したんですけども。お父さんがまぁだ五十幾つでしょうか亡くなられました。長い間休んでおりました。姉さんがこの頃からあの盲腸で手術をして、昨日退院のおかげを頂いた。もうそれやらこれやら取り付かねて。
 もう今年は親先生に大変なおご苦労を掛けました年でしたと。本当に親先生今年はおかげを頂いて有り難うございましたと。今が幾つでしょうか二十歳位じゃないでしょうか。まぁ高校卒業してから銀行へ勤めております。もう丸少の時代から熱心な信心をしておりましたがね。もうその本当に御礼を言うとるという事が、こちらへ伝わって来るんです。ほんなら去年ちゃもう本当親を亡くする程しの年だから、もう悪い年と言うても良いところなんだけれどもね。
 その前後の事からあれを思いこれを思いさせて頂いて、思わせて頂けば頂くほどおかげを頂いた、金光大神お取次ぎの働きのなかにおかげを頂いたという事を御礼を申させて貰います。御礼の心というものはね。だから信心が分かればもう自分の周辺の全てが御礼の対象にならざるものはない。いや御礼の対象にしなければ駄目なんだと。それを御礼を申し上げないことは、結局忘恩の生活を積み重ねる事にすらなるのだという事になりましょうが。頂いておるものを頂いておると気付かず。
 生かされておる事を生かされておると気付かず。神様がこのようなおかげを下さっておるのにも関わらず、おかげおかげと頂ききらずに、幾ら頂いても頂いても頂きたらぁんごと思うて。もう去年な散々でした、もう今年こそいっちょどうでんこうでんおかげ頂かにゃならん。そしてまた同んなじ事を繰り返す。そういう事ではいけない。もうひとつ本気で今年こそはと、思うならば神様にお喜び頂けれるような、ひとつ心に念じそれを心の誓いとさせて貰うて。
 例えていうならば、ほんなら今年はいよいよここの御造営が具体化するでしょう。この御造営にはどんな事があっても、ひとつこういう御用に使うて頂きたい、お繰り合わせを頂きたい。もうこれをひとつの今年の願いにする。そこからそれがね本当の願いになって来る時に生まれて来るのが、今年はおかげになるという確信が生まれて来るです。不思議です。それはね神様に通うからですその思いが。まだ色々ありましょう。神様にね私は今日申しました。
 昨日私が続けてその何千万残りました。何千万売り上げが多ございましたという人達の方が、もうみんな日参、教聴、心行、家業の行が出来ておると、思われる方達ばっかりという事は日参と毎日毎日お参りしておるという意味じゃないです。もうそれこそもう日々日参の心の状態というのがあるんだと言う事です。そこにそれぞれの工夫が要るんです。教聴毎日ここで私の話を聞かんならんと言うのではない。それは今こんなテープレコーダーなんかがあるからね。自分の精進一つで毎日頂ける働きも起こって来る。
 二三日前あのうこのテープを写す。もうあっという間にあのこれを写せれる機械が、お供え頂いておりますからね。もう皆さんがそういう用意でもなさるなら、もう本当すぐ出来るんです。毎日の御理解を頂く事が出来るんです。そしてそこからです、はぁ今日はこれでいこうというそれが心行です、家業の行です。今日も信心になろうそれが心行なんです。その心でなら家業の行を行とするという事が家業の行です。日参、教聴、心行、家業の行、もう間違いなく例えばほんならここでもですね。
 ちょうど去年よりも四万のお届け数が増えておりますように、これはそれに釣り合うて他の事の一切も、やはりそういうおかげを頂いております。言うならばここで一つの手本になるようなおかげを皆さんに頂いて、みんなに見てもらい聞いて貰いしておるのである。またそこに主だった例えば今言うような、日参教聴の出来ておると言った様な方達の信心振りと言うものを見習わせて頂いて、そして自分の手元の所でもそういう信心に、ならせて貰うというおかげをね頂かなければいかんのです。
 本当にね本当な事が見え、本当な事が聞こえる様にならなきゃ駄目です。本当に神の心が分からなきゃね。例えば御礼を申し上げねばならん事に、不平不足を言うておる様な事がございます。教えは何か遠いところで聞こえておる。じゃなくて本当に聞こえなきゃ。昨夜下がらせて頂きましたら、ちょうどあの紅白歌合戦があってましたですね。もうそれのしまえ方でしたけれども。みんな子供達がみんな集まってきてました。ほんなら私の部屋でみんなあの、運蕎麦を毎年頂きますから頂いて。
 私は蕎麦が大好きですからそのう二杯頂いた。時にその若先生があのもう一杯蕎麦が来ましたから、もう一杯頂かんですかち言いますもん。いやそげん三杯も食べよったら馬鹿になるち私が言いよったら、皆が大笑いしますとですよ。それがねもうその蕎麦が一杯じゃなかったらしいんですよ。私はこう休んでおるとに、あのう何と言うですか下に敷きますのを二つ敷いてるんです。ところが夕べもう一つ来とったらしいんですよ。だからそれを、三枚親先生しかれたらどうですかと言ったらしいんです。
 ところが私がちょうど二杯目の蕎麦を食べ終わったとこじゃったもんじゃから、もう一枚敷きなさったらどうですか。もう一杯おそば上がりなさったらどうですかち聞こえたもんじゃけん。いいやもうそげん、三杯も食べよるなら馬鹿になると、私が言うたもんだからみんなで大笑いする。聞こえないという事はそんな滑稽な事になるんですよ。そげなその敷物が食べられる筈はないですから。けれども蕎麦をもう一杯とこちらに聞こえた訳です。例えばほんなら今日の御理解を頂いてもです。
 そういう頂き方しか出来ない人もあるかも分かりません。先生はそのこういう信心になるよと言うたのに、こういうと言うていわゆる自分が耳の遠い事は分からんで、聞き違いをしておるといった様な事もありましょう。ですからいよいよ目も近うならなきゃならない。言うならば心の目心の耳が開けて来なければ出来ません。信心するものは肉眼をおいて心眼を開けと仰る。心の目が開けてくるためには、どうしても行をしなければいかん。それを火の行水の行と言うのではなくてです。家業の行を行とする。
 心行を今日もこの御教えで行こう。これが心行なんだ。その今日のこの御教えをと言うのを、間違えて頂いて帰ったらどういう事になるか。日まさり月まさりいわゆるめでためでたと言われるようなおかげを頂く事のためにも。また金光大神は一分一厘、間違いのない。もう絶対子孫繁盛の道を教えて下さるのだから、その道を本気で体得しよう。今年こそは本気でまちっと増しな、金光様のご信心を頂こう。
 道を分らせて貰おう。そしてその道を歩かせて頂こうと言う、一心発起が出来たらね。そこからです言うならばおかげになる。今年はあのう昨日四時の御祈念の時に、お礼を申させて頂きよりましたらね。地からこの湧き水がこのくらいの高さに、こう湧き上がっておるところを頂きました。今年はその受けものさえ作れば、誰でもそのお水が受けられるようなおかげ。
 次には大黒様が大判小判をちりばめたような、あの言うなら露出しとる現れておる。そういう大黒様を御心眼に頂いたです。今年はそういうおかげの頂けれる年なんだ。だからそれを頂けれるためには、それだけのいうなら受けものを持ってこなければならない。その受けものを作ろうと言った様な、一心発起がです出来れるひとつ信心を今年は求めていきたいと思いますね。
   どうぞ。